試作品置き場

アラサーだけど絵がうまくなりたい男のブログ

TV版でレヴュースタァライトにハマれなかったオタクが劇場版でぶん殴られた話

ご挨拶

転職活動をしていたので絵をまるで描いていませんでした。

今回は劇場版レヴュースタァライトを見たので、オタク活動のリハビリとして感想を書いていきます。ネタバレをガンガンしているので未見の人は劇場で見てください。

TV見て「なんやつまらん」と思った人は見てなくても、読め!(富野節)

私とレヴュースタァライトの出会い

レヴュースタァライトを知ったのは友人の勧めだった。ブシロードコンテンツ好きな友人がいつかの公演の円盤を見せてくれ、興奮気味に話していた。その頃はTVアニメの影も形もなかった。

当時の自分は「まぁ気になる」くらいの温度感で、「三森すずこが殺陣のときにレインメーカーしねぇかな」とかふざけたことを言っていた。相羽あいながなつぽいにエルボーを入れてはいたので、演者のプロレス要素は一応あるといえばあるがおいておこう。*1


www.youtube.com

時は経ちTVアニメが放映され、期待して視聴した……が、ハマれなかった。というか最後まで視聴できなかった。理由はいくつかあるが、大場ななが理解できなかったのだ。行動原理がわからない、と思って視聴をやめてしまった。

今から思えば当時の自分は大場ななの片鱗を掴んでいたのかもしれない。しかし、解釈を固定させ読み込むことができなったのだ。そう、劇場版レヴュースタァライトを見るまでは。

大場なな=舞台装置説

結論から言おう。大場ななはキャラクターというより舞台装置に近い。行動原理を読み取れないのは当然かもしれない。勿論これはオタクの妄言であるが、そのほうが腑に落ちる。

当時の自分は「キャラクターを舞台装置そのものとして利用する」という発想がうまく消化できていなかったのだが、大場ななを舞台装置として見ると、様々な事象が理解可能になる。

劇場版でななが負っている役目は2つある。

  1. 「台本」がありながら、ひとつひとつの公演が別物になる演劇という行為の矛盾(TVAでもこの役割はある)
  2. 反復というイメージからくる、現実・日常・慣習の化身

これを「キャラクター」に落とし込む辺りが大場ななの特殊性だ。

TVAにおいてななはループを行って望ましい舞台を再演しようと企む存在であったが、これは彼女の役割が舞台の方向性を規定しようとする脚本、あるいは演劇という行為そのものに内在する矛盾であると仮定すればむしろループは必然となる。

そして、劇場版での彼女はより強固な舞台装置として「現実」という役目を負っている。

何故、皆殺しのレヴューで首を切られたのは純那と香子だったのか

こんな超理解に至ったのはすべて劇場版レヴュースタァライトのせいである。ここからは、読解の補助線となる比喩と、その解釈について述べていこう。

劇場版の鍵となる比喩は二つある

  1. トマト→心臓
  2. 現実→大場なな

まず、前者は比較的わかりやすいだろう。冒頭のシーケンスではまずトマトが破れ、華恋の失意が描かれる。最後のシーンに至るまでには逆に

  1. トマトを置いて歩む
  2. トマトが破れ、演劇人としての死を向かえる
  3. 失意の底で過去を燃やすことで、演劇人として復活を果たす
  4. 最後にひかりからトマトを手渡され、演劇人として再スタートする

という流れが描かれる。この流れは綺麗なのだが、途中に2つの比喩が介在するのでややこしい。それが「血」「糧」である。糧の部分はたぶん2回目見ないとわからないので詳細には語らない。

トマトが破れる=出血の比喩はわかりやすい。破れによって華恋は動きを止める。その一方で、トマトはラストで手渡されるものであり、決意を込めて囓るものであるし、キリンの一部になっていたりする。わからないので、トマトには他の比喩も付与されていると解釈するのが妥当だろう。その一つが「心臓」のもう一つの側面である「心が躍る」面だろう。この話は冒頭で香子が口頭でしている。この解釈で4を理解することができる。

劇場版において血は「死」と「生」の両面を描くプロップになっている。「死」の部分を読む上で大事なのが皆殺しのレヴューである。

進路、現実、華恋

皆殺しのレヴューにおいて、首を切られるのは純那と香子の二人であるが、この二人はともに冒頭の進路相談において演劇以外の進路(純那=大学進学、香子=襲名)を希望している。つまり、現実を意識した路線を志向した人間だけが首を切られている。また、現実が本当に牙を剥いたときには誰も勝てない。(この点でも、なな=舞台装置を想定しないと「強キャラなのになんで?」という疑問を抱きやすい)

この状況から、大場なな=現実の化身説を想起した。もちろん想起に至った理由はこれだけではない。まず、進路という面においては先を進んでいる真矢クロが進行方向で前の車両にいる。もう一つ大事なポイントとして、 同じ電車に乗っているはずの華恋の姿がない。思い出そう。冒頭の進路相談において、華恋の進路は明かされていなかった。以上のことから、皆殺しのレヴューは各人の進路と対応していることが想定できる。

華恋と現実

回想シーンで語られるように、華恋はロンドンに渡ったひかりに対し一方的に情報を伝える一方でひかりの現状については目を触れないようにしていた。華恋については、ひかりとの約束に固執することで現実から目を背けているという指摘は作中でもなされている。

ラストで客席の近さや照明の熱さという単純な事実に驚く華恋が象徴しているように、劇場版の主題は「幼い日の約束をモチベーションに、現実を直視しないことでここまできた少女が現実と向き合って新たな生き甲斐を見つける」話であろう。

そして、現実の化身としてプロップではなくキャラクターそのものを利用するという仕掛けは意表を突くではあるものの、意図を理解してしまえばこれまで脈絡のないように見えた様々な事象が唐突に繋がって見えてくる。

だから純那 vs. ななはアツい

大場なな=現実の化身説をとると、純那-なな戦が非常にアツいものに読めてくる。まず、ななは純那に対して切腹を強いている。切腹を拒む純那に対し、ななはトマト=純那の心だろうかを斬る。しかし、純那は戦いを選ぶ。

切腹はもちろん、進学して視野を広めるなんて言い訳せずに演劇を諦めろと命じる現実的な声を喩えたものになる。その声に対し純那は、これまで支えにしてきた他者の言葉で対抗する。しかし、純那が戦っている現実=ななは、すでに他者の言葉による攻撃を耐えてきた現実である。であれば、現実を打倒するには自分の言葉によって戦うしかない。ありふれた展開ではあるが、こうまで練られていると感心する。

ここで従来の弓矢=他者の言葉ではなく、脇差=自分の言葉&進学という切腹手段で戦っていくという映像表現は非常にエモーショナルである。一本取られた。

おわりに

「筋を進めるために筋書き通りに進むキャラクター」というのは批判されがちであるが、「キャラクターそのものを筋書きの擬人化として利用する」というのは面白さに気付きにくい。そして、この解釈で再度TV版を見ようと思ったらdアニメを解約していた。とほほ。

*1:余談だが、万喜は現在スターダム所属なのでこの映像の出演者は現在ほぼブシロード一味である